みやぎの明治村とは

みやぎの明治村「登米町(とよままち)」とは

みやぎの明治村「登米町」は宮城県北東部にあり、町の中央を東北の大河北上川が流れ、東に北上山地、西にはお米のササニシキ・ひとめぼれのふるさとである豊かな田園地帯が広がる静かな町。

仙台伊達藩の一門として、13代約300年にわたり、二万一千石の城下町であった。歴代の当主は北上川の川筋を変えるなど数多くの事業を興し、民生の安定に努め明治維新後は北上川を利用した舟運による米穀の集散地として繁栄した。廃藩置県により登米県・水沢県の県庁所在地になったが、その後宮城県に統合された。明治6年、寺池村・日野渡村・日根牛村を合わせて登米村が構成され、また明治22年町制施行によって登米町が発足。

町には、教育資料館(国重文:旧登米高等尋常小学校)や警察資料館(県重文:旧登米警察署庁舎)のハイカラな洋風建築物、廃藩置県当時に置かれた水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎)や重厚な蔵造りの商家など、明治を偲ばせる建物が現存している。また、少し横道に入ると藩政時代の武家屋敷や史跡が随所に残っており当時の面影を今に伝えている。それらの町並みから登米町は「みやぎの明治村」と呼ばれている。

「登米」と書いて読み方が異なる「トヨマ」と「トメ」

『続日本紀』に「宝亀5年陸奥国遠山村」の記述があり、国語学者大槻文彦氏は著書『復軒雑纂』(1902年)の中で「続日本紀の宝亀5(744)年10月の条に見えた、蝦夷の巣窟陸奥国遠山村とあるが、後の登米郡の地であろう。遠山村はもとより蝦夷語の当て字であろうが、遠山は「トヨマ」の同音である。」と述べており、このことから「遠山」が「トヨマ」の語源であるとされている。

また、「トヨマ」を「トメ」と呼ぶようになったのは、『復権雑纂』に「今”トメ”など言うは、維新後に他国より来し県吏など百姓読みせしに起れり、往時は、さる称呼せし者一人もなかりき。」とある。明治の初めこの町が登米県・水沢県の県庁の所在地となって地名の呼び方もわからない県庁職員が多数往来したので”トメ”と呼ぶようになったのであろうと言われている。

町内の施設名称は、市町村合併後も町内にある小中学校の読み方は変わらずトヨマ小学校・トヨマ中学校と読み、国・県の施設に関しては、宮城県立トメ高等学校・仙台地裁トメ支部・仙台法務局トメ支局・宮城県トメ警察署と使い分けされている。