教育資料館


 

明治21年(1888)、二年半の歳月をかけて落成した旧登米高等尋常小学校(現教育資料館)。

木造二階建て、素木造、屋根は寄棟造り棧瓦葺きで平面はコの字形である。正面校舎中央にバルコニー式の玄関が突き出している。バルコニーのある玄関ポーチの部分だけ、当時から白ペンキ塗装使用であった。そのバルコニーの柱の柱頭はギリシャ建築のイオニア式を簡略化したもので飾られている。ペディメント(三角破風)は、閉じずに左右に流れており完全なペディメントは構成していない。両翼校舎の先端には平屋造り半六角形の昇降口(六方という)があり小屋組みはトラス構造で複雑なつくりが特徴である。教室の前面には、吹抜けで欄干をもつ廊下が付けられており、明治の学校建築の特色を残している。また、教室の窓は両側にあり、当時としては大変貴重な板硝子を使用している。

明治始めの学校建築は、擬洋風といわれるもので平面の形の横一文字中廊下式で内外部共に装飾がほどこされたものが多かった。しかし、時代が進むにつれて、平面の形も一文字型からL字型、コの字型となり、配置も対象性から方向性が重視されるようになり廊下も中廊下から片廊下へと変化していった。また、学校建築の増加による経済的理由もあり装飾を排し、堅実を旨とする建築が求められるようになった。

このような時代の推移の中で建設されたこの校舎は、明治時代の学校建築の流れや動向を知る上で手掛かりとなる非常に重要な遺構である。明治21年10月9日の竣工であるが、今日でも狂いがない。日本の建築関係者の中で最初にヨーロッパに渡り洋風建築を学んだ大工であり、この校舎の設計監督者山添喜三郎の名を高からしめた建築である。

明治の洋風学校を代表する建築物として昭和56年(1981)に重要文化財に指定された。
 
 

建物の経過

明治21年(1888) 10月 落成
昭和38年(1963) 7月 県重要文化財に指定
昭和48年(1973) 4月 明治22年以来86年間使用され校舎としての役割を終える
昭和53年(1978) 4月 登米小学校校舎改築のため仮校舎として使用
昭和54年(1979) 7月 宮城県登米高等学校校舎改築のため、1年間宮城県に貸与
昭和56年(1981) 6月 重要文化財に指定
昭和59年(1984) 8月 登米中学校校舎改築のため仮校舎として使用
昭和60年(1985) 9月 教育資料展示室を開設
昭和62年(1987) 10月 保存修理工事開始
平成元年(1989) 10月 保存修理工事終了
平成元年(1989) 10月 「教育資料館」として一般公開開始
平成2年(1990) 4月 整備事業が終了
平成23年(2011) 3月 東日本大震災により一部損壊
平成24年(2012) 11月 修復工事開始
平成25年(2013) 11月 修復工事終了

 
 

史上初めて欧米に渡り洋風建築を習得した日本人大工 山添喜三郎

天保14年(1843)9月15日、新潟県西蒲原郡角海浜村(現:新潟市)に生まれた。この角海浜地区からは代々優れた大工が多く輩出されている。14歳の頃、船大工となり26歳の頃建築大工に転じ、東京の棟梁松尾伊兵衛の弟子となり、そこで筆頭大工となる。

明治政府は、明治6年(1873)に開催されるウイーン万博博覧会への参加を決める。当時の万博は、欧米各国が自国の最先端の科学技術の成果を発表し競い合う一大祭典であったが、当時の日本にはそのような成果がなかったため日本伝統建築の日本館に伝統工芸品を展示するしかなかった。そのパビリオンの建設責任者として任命されたのが松尾伊兵衛と当時31歳の山添喜三郎であった。任務は日本館の建設と建設終了後に西洋建築技術を習得することであった。この西洋建築技術の習得は老齢の松尾伊兵衛には難しかったため、山添喜三郎一人に託されることとなった。およそ9ヶ月半のヨーロッパ滞在で、主に西欧の工場建築技術を学び帰国した。

帰国後、内務省勧業寮などで活躍し新町紡績所など全国各地の製糸工場の指導にあたった。明治16年(1882)に辞職し宮城県へ移り、明治18年(1885)43歳で宮城県庁に雇われ大正7年(1918)76歳まで勤めた。その間、旧登米高等尋常小学校(現教育資料館)・旧登米警察署庁舎(現警察資料館)の建設に設計工事監督として携わっている。

晩年の大正6年(1917)75歳の時に、内閣総大臣寺内弘毅の上奏により、宮城県技師、高等官七官に任命される。翌年、宮城県技師を辞職。

大正12年(1932)81歳永眠。仙台市の栄明寺に葬られる。

 
 

旧登米高等尋常小学校建設時の山添喜三郎のエピソードなど

  • 屋根に使う瓦は一枚一枚重さを計り、これを一夜水に漬けて翌日また重さを計って吸水量を調べ一定以上の量目の瓦はすべて不合格品として使わなかったといわれ、そのため納入する瓦屋は次々と倒産したと伝えられている。
     
  • 建設材料である木材も検査が厳重でハネ材が多く出され、そのため木材供給業者は家産をかたむけたといわれる。
     
  • 工事は洋風建築様式が多く、工法に慣れていない大工の苦労も並大抵ではなかった。そのため予想以上に手間ひまがかかり、工事請負をした大工棟梁は家財を売り払っても借財が残り、ついに夜逃げ同様にこの地を去らなければならなかったという。
     
  • 工事の厳しさから山添喜三郎に恨みを抱く者もおり、検査のため山添が屋根に登ったところ梯子を外されて昼食のときも夕方になっても下に降りられなくされたとか…。恨みを抱く業者からは、あるとき川の中や堀の中に人力車ごと放り込まれたことがあるなど…。
     

山添喜三郎について言い伝えられるエピソードの数々は、仕事ぶりを非難するものではなく、彼がいかに職務に忠実であり、校舎建築の責任の重大さを自覚して後世に残る立派な建物を造ることに専念したかを伝えている。山添喜三郎の妥協を許さない態度によって、当時の請負業者や職人に理解されずトラブルが起きていたが、どんなことが起きても屈しなかったからこそ今日まで残る堅牢優美な校舎がある。数々のエピソードは、現在でも敬意と感謝を込めて語り継がれている。
 
 

施設入館料

各施設単独観覧料

  教育資料館 警察資料館 水沢県庁記念館 登米懐古館 伝統芸能伝承館
森舞台
個人 一般
(学生を含む)
400 300 200 200 200
高校生 300 200 150 150 150
小・中学生 200 150 100 100 100

5施設共通観覧料

  教育資料館・警察資料館・水沢県庁記念館
登米懐古館・伝統芸能伝承館 森舞台
個人 一般
(学生を含む)
800
高校生 600
小・中学生 400

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