伝統芸能伝承館 「森舞台」

 
『森舞台』の愛称で親しまれているこの能舞台は、300年近い歴史と伝統を誇る登米能(とよまのう)のホームステージとして平成8年(1996)年にオープンした。もと登米伊達家の御鍛冶屋(鉄砲鍛冶)屋敷跡地に、山裾の地形そのままの豊かな自然に抱かれて端正な佇まいを見せている。

設計者は建築家隈研吾氏。風を感じたり、光を感じたり、自然を感じながら、“自然と一体となった場所で能は表現されるもの”との想いから目指したのが“森と一体の能舞台”であり、まさにその言葉通り「Noh Stage in the Forest」である。

また能舞台建築の伝統を踏まえながら、随所に新しく個性的な工夫がなされている。地元産素材を多用:舞台の柱は地元産のヒバを用い、屋根は登米町特産の天然スレート葺き。周囲の景観との融和:舞台には腰板をつけていないため、夜になると舞台は宙に浮いているような雰囲気となる。床下には足拍子の共鳴装置として配置された瓶を数個配置している。また、舞台と見所の間の白洲は広い空間を設け、白玉砂利ではなく黒い砕石を敷きつめて、森の暗さとの一体化を出すなど様々なところに工夫がみられる。

鏡板の絵は日本画家千住博氏の制作。“実際の大きな老松がそこに存在するような雰囲気が醸し出せれば”と述べる通り、正面松の絵は鏡板の枠内におさまりきれない大きさで天然緑青を用いて描かれている。脇(切戸口)の若竹は天然群青で描かれ、この青さは若さに通じ、また松の枝の緑が虚実の「実」を表し、竹の青さは虚実の「虚」を表している。能の「虚実の世界」の象徴でもある。

展示室は、アートディレクター原研哉氏によるもので、能装束や能面等をはじめ登米能に関する資料を展示している。
平成9年日本建築学会賞受賞。
 

建築家 隈 研吾(くま けんご)

© Designhouse

1954年横浜生まれ。

1979年東京大学建築学科大学院修了。コロンビア大学客員研究員を経て、2001年より慶應義塾大学教授。2009年より東京大学教授に就任。現在に至る。

1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞。同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2002年「那珂川町馬頭広重美術館」をはじめとする木の建築でフィンランドよりスピリット・オブ・ネイチャー 国際木の建築賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞、2024年「日本芸術院賞・恩賜賞」受賞。

近作にサントリー美術館、根津美術館、歌舞伎座、V&A Dundee(スコットランド)、サン・ドニ・プレイエル駅(フランス・パリ)。

2020年東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場となった国立競技場の設計にも携わる。地場の杉と青森ヒバで作られた森舞台の実績が国立競技場の設計にも活かされている。
 

隈研吾氏のコメント

能はそもそも大自然の中で演じられるものであった。能を能楽堂という形で室内に閉じ込められたのは近代の出来事である。「森舞台」は登米町の美しい森の中に、能というドラマツルギーを再び開放しようとする試みである。野外に解放された「森舞台」は、能が演じられない日にも人々を受け入れ、舞台の周りを巡る人々の想像の中に「見えざる能」が再構築される。舞台を囲む「白洲」の空間は段状に立ち上げられ、その下部には「能の資料館」の空間が生成された。資料館は登米町の謡曲会の人々の稽古の場としても利用される。「正面見所」は能を見るためだけにあるわけではなく、森を鑑賞し森と一体になるためのフレーム(枠組)でもある。すべての空間は森に向かって解放され、そして登米町の人々に、能を愛するすべての人々に対して開放されている。この建築を通じて「開かれた文化施設」のひとつのプロトタイプを提示したいと思った。

 

日本画家 千住 博(せんじゅ ひろし)

1958年東京都生まれ。

1982年東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。1994年、第7回MOA岡田茂吉賞、絵画部門優秀賞受賞。1995年創立100周年のヴェネツィア・ビエンナーレ優秀賞受賞以降も、世界中の様々な賞の受賞歴を持つ。

その他2011年迄にAPEC2010首脳会議の会場構成担当、東京国際空港第1、第2、国際線ターミナルのアート・プロデュース/ディレクションを担当。またJR九州博多駅のアート・ディレクションも担当・完成させるなど、日本画の存在やその技法を世界に認知させ、真の国際性をもった芸術領域にすべく、幅広い活動を行っている。

現在、京都造形芸術大学同付属康耀堂美術館館長。東京芸術舎学長。
 

千住博氏のコメント

私は、能舞台の壁画制作に奇をてらうことなく真正面から挑んだ。実際の大きな老松がそこに存在するような雰囲気が醸し出せればと考えた。私なりのアミニズムとして能舞台を捕らえるが為、私が使った絵の具はすべて天然の岩絵具であった。太古の人が何か不思議なパワーが身につき、そして宇宙との交流があると信じて、その身を飾り身に着けた宝石の末裔として、私の天然の岩絵の具はここにその歴史を始めるのである。天然緑青により、ほぼ前面に緑色によって占められる能舞台は、前例がないのではなかろうか。そして若竹は全て天然群青で描いた。この表現も前代未聞であろう。この青は若さに通じる青であり、非物質的な象徴でもある。松が虚実の実であるのに対し、竹は虚を表している。能舞台の壁画を制作してみて伝統から離れようと思えば思うほど大いなる伝統の手のひらで遊んでいるといった感じの制作過程の体験があった。この事を通して、私は日本文化の奥行きの深いダイナミズムを一人でも多くの方々に感じていただければと願っている。
 
 

宮城県無形民俗文化財『登米能』について

登米能は、仙台藩での能の隆盛にならって行われてきた。

藩祖伊達政宗公は能楽史上に大きな影響を与えるほど能を愛し、歴代の藩主も能を重んじてきた。仙台藩においては喜多流と金春流が盛んに取り入れられ、金春流に創意を加えて特異な流派である金春大蔵流(後に大蔵流)を編み出し盛んに演能された。伊達一門の登米伊達家でも大倉流が取り入れられ、これが現在継承されている「登米能」の原型である。

武士階級の式楽として大成した能楽は、明治維新の廃藩によって武士階級が離散したことから継承の危機を迎えることとなる。幸いに登米伊達一門は当主が農地を家臣に分け与えたことから家臣全員が帰農することができ、そのことが登米能を一般町民にまで普及させることとなった。また、謡の練習の際は小笠原流礼法による礼儀作法をすることから、謡は男のたしなみとさえ言われ、登米地域では日常の儀式が謡によって執り行われるほど、礼儀作法等の社会教育の重要な一端を担っており、現在でも地域習慣などに大きく影響している。

登米謡曲会は明治41年に伝承を目指して発足。旧藩以来の大倉流独自の手数(芸型)と登米伊達家における独自の儀法をなどを保持しながらその伝統を守っている。その後度重なる衰退の危機を乗り越え、昭和45年の地元八幡神社への奉納能楽の復活で再生し、以来、秋祭りの宵祭り(9月第三日曜日の前日)で「薪能」として演能している。

登米伊達家開府から400年の間、能と親しみ、また、大倉流確立後は260年もの伝統を受け継ぎ、アマチュアだけで演能できるのは宮城県では唯一で東北地方においても貴重な存在になっている。

登米謡曲会は、平成3年度宮城地域づくり大賞(新・伊達なスピリット部門)、平成4年度に第42回河北文化賞を受賞し、平成10年には宮城県無形民俗文化財に指定された。平成12年には文部大臣賞(文化財保護)・国土庁長官賞(過疎地域自立活性化)を受賞している。

演能は昭和42年から100回近くあり、その中には昭和60年のイタリア・ローマでの「昭和の使節団」として、平成12年には、能楽の殿堂・国立能楽堂での演能が含まれている。
 
 

住所・地図

〒987-0702 宮城県登米市登米町寺池上町42

 
 

施設入館料

各施設単独観覧料

教育資料館 登米懐古館 警察資料館 水沢県庁記念館 伝統芸能伝承館
森舞台
髙倉勝子美術館
桜小路
個人 一般
(学生を含む)
400 400 300 200 200 200
高校生 300 300 200 150 150 150
小・中学生 200 200 150 100 100 100

6施設共通観覧料

教育資料館・警察資料館・水沢県庁記念館・登米懐古館
伝統芸能伝承館 森舞台・髙倉勝子美術館 桜小路
個人 一般
(学生を含む)
1000
高校生 750
小・中学生 500

各施設の開館時間は午前9時から午後4時30分までです。
1団体20名以上で団体扱いとなります。団体の施設入館料は団体様向け情報をご確認ください。