登米懐古館
昭和36年、寺池城址に旧登米町名誉町民の渡辺政人氏の寄贈によって建てられましたが、令和元年9月、伝統芸能伝承館「森舞台」を手掛けた建築家隈研吾氏の設計により移転新築しました。館内には、登米伊達家ゆかりの甲冑「鉄黒漆塗五枚胴具足」、刀剣「太刀備州長船恒弘」、絵画「古歌咲く時は」伊達政宗、狩野探幽、大徳寺江月和尚合作など、城下町であった当時を偲ばせる貴重な品々を展示しています。登米町産天然スレート葺きの屋根は街並みと調和し、武家屋敷通り側の表門から入る日本庭園は落ち着いた佇まいです。地域の歴史を紐解く企画展や、伝承芸能の野外公演、野点なども見逃せない観光スポットです。
常設展示品
- 金小札萌黄糸縅大鎧 仙台藩主着用
- 鉄黒漆塗五枚胴 具足 登米初代 伊達宗直君所用
- 鉄黒漆塗 胸取五枚胴 具足 登米十二代当主 伊達邦寧君所用
渡邊政人氏について
遺訓
1.人生で一番大切なことは、誠実である。
1.登米(とよま)は、私達の「家」である。
1.人間は、いつも「初心」を忘れてはならない。
氏の人柄は温厚篤実、うちには烈々たる気迫を秘め、事に当たっては細心にして大胆、不撓不屈の信念と実行力に富み、業界・地域においての信望は極めて厚かった。それは氏が16歳の折に志を立てて故郷を後にし、朝鮮・その他の地域を転々し、その後、東京で明治大学商学部卒業するまでの苦労の中で培われた生活体験で得られたものと推察される。…詳しくは渡邊政人氏略歴にて。
寺池城について
戦国時代の平山城(ひらやまじろ)で、江戸時代には仙台藩21要害の一つとされていた。北上川西岸の丘陵の南端部に城跡が残っている。築城年代は不明だが、源頼朝の奥州藤原氏討伐に従軍し、奥州総奉行に任じられた葛西氏により建設された城。
天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏が改易・断絶すると、寺池城は秀吉家臣の木村吉清・清久父子の属城の一つとなったが、翌年の葛西大崎一揆で、一揆勢に攻められ佐沼城(同市迫町)とともに落城。
伊達氏の米沢からの国替えに伴い、伊達氏の城となった。この城を重視した伊達政宗(だてまさむね)は慶長9年(1604)、家臣の白石宗直を1万5000石で配し、元和の一国一城令以降も登米要害として存続した。白石氏は元和7〜8年(1621〜1622)に藩主から伊達氏を下賜され、以後の白石氏は登米伊達氏と呼ばれるようになった。そして、引き続き登米伊達氏が代々城主を務めて明治維新に至った。
城跡は現在、本丸跡は畑、二の丸が裁判所敷地、三の丸が寺池城址公園になっている。曲輪(くるわ)、土塁、空堀、壇、井戸跡が残り、碑や復元絵図が設けられている。同城は明治維新後は廃城となり、遺構はほとんど残っていないが、町内の熊谷家に寺池城裏門を移築したとされる門がある。
旧懐古館東南隅石垣の上に赤松の巨木「双竜の松」(市指定天然記念物)が横たわっている。樹齢300年以上と推測され、城址のシンボルとなっている。
住所・地図
〒987-0702 宮城県登米市登米町寺池桜小路72番地6
施設入館料
各施設単独観覧料
教育資料館 | 登米懐古館 | 警察資料館 | 水沢県庁記念館 | 伝統芸能伝承館 森舞台 |
髙倉勝子美術館 桜小路 |
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個人 | 一般 (学生を含む) |
400 | 400 | 300 | 200 | 200 | 200 |
高校生 | 300 | 300 | 200 | 150 | 150 | 150 | |
小・中学生 | 200 | 200 | 150 | 100 | 100 | 100 |
6施設共通観覧料
教育資料館・警察資料館・水沢県庁記念館・登米懐古館 伝統芸能伝承館 森舞台・髙倉勝子美術館 桜小路 |
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個人 | 一般 (学生を含む) |
1000 |
高校生 | 750 | |
小・中学生 | 500 |
各施設の開館時間は午前9時から午後4時30分までです。
1団体20名以上で団体扱いとなります。団体の施設入館料は団体様向け情報をご確認ください。